佐柿陣屋

別名 佐柿町奉行所  付近住所 福井県三方郡美浜町佐柿 現在-
2009/5/4 碑・案内板アリ


佐柿概略
 美浜町佐柿は、戦国時代の山城である国吉城址(美浜町指定史跡)の麓に位置しており、現在も江戸時代より続く町並み風景や自然景観など、至る所で歴史の息吹を感じることができる。
 天正11年(1583)、国吉城主となった豊臣家臣の木村常陸介定光は、それまで国吉城麓の小集落でしかなかった佐柿の整備に着手した。椿峠を越えて西に進んでいた丹後街道を、国吉城麓を経由するよう南に付け替え、通りに面して100軒余りの町家が立ち並ぶ城下を整備した。また、関ヶ原の合戦後に若狭国の領主となった京極高次は、町の北側に関所を設けたほか、慶長9年(1604)の大火で灰燼に帰した佐柿の復興に取り組んだ。
 国吉廃城後の寛永11年(1634)閏7月、小浜城主となった酒井忠勝は、領内の敦賀や佐柿に町支配のための奉行所や、藩主が領内巡検の際に休息所とする御茶屋屋敷を設置した。佐柿は以後町奉行支配の下で丹後街道の宿場町として栄え、幕末には小浜藩預かりとなった水戸天狗党の残党を収容する准藩士屋敷を奉行所近くに設けるなど、敦賀とともに小浜藩東部の政治、経済の中心として繁栄した。

佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)跡

 この辺りは、小浜藩の佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)跡で、享和3年(1803)に「佐柿陣屋」と改められた。当地には現在、近世城郭に見られるような見事な石垣や池泉跡、水路跡などが残されている。
 存在した建物の様相は明らかでないが、19世紀初頭の村絵図には、現在する石垣付近に「御茶屋御門」の位置が示されているほか、明治初頭の村絵図には、石垣上の塀や門、大きな書院建物の姿が描かれている。「雲濱鑑」(文化4年・1807)によれば、屋敷地坪は2043坪で、建物(御屋形、台所、長屋、番所など)163坪、他に表門1ヶ所、露除3ヶ所、奉行所役宅47坪、制札場、女留番所と木戸門や柵が建てられていた。これらの建物は廃藩後に破却されたが、一部は移築され現在している。